寺山修司と記憶と編集と自分との対話

この前「記憶と編集」「過去の自分との対話」についてレポートを書いたのでせっかくだからブログ用に書き直して載せる。

(寺山修司について研究する授業なので、寺山修司のことを指す言葉がいくつか出てくる)

1. 「記憶」についての考察
私にとって「記憶」というものは「回しっぱなしのカメラ」である。意識的に憶えようとしたものではなく、私が生き続けている限り撮影の続いているビデオカメラなのだ。私にしか見ることのできない超大作が頭の中に死ぬまで保存される。そして経年劣化とともに抜け落ちたり見つけにくくなったりしてしまう点も非常にビデオカメラといった感じだ。
2. 「編集」についての考察
ラッパー、ytrの「リフレイン」という曲に「記憶の断片を拾い集めつなぎ合わせて思い出と名付ける」というものがある。思い出はもともとその形で存在しているのではなく、断片として存在している「記憶」を、「つなぎ合わせる」ことで成立するのだという。私は「つなぎ合わせる」という言葉は「編集」と置き換えることができるのではないかと考える。
その場合彼も寺山のような考えを持っているといえるのかもしれないが、もし、彼にそういった意図がなかったとしたら、新しく一つの考えが生まれてくる。「記憶」というものは少なくとも私の中では前述のように映像として頭に残っているのだが、その記憶を人に話すときは言語化する必要がある。そして言語ではその映像すべてを伝えることはできない。そのままを伝えることができないとなると、意識的か無意識的か、何を伝えて何を伝えないかという取捨選択をすることになる。さらにいえば忘却による伝達不足も起こる。それらもまた「編集」なのではないだろうか。もしそうだった場合、情報の受け手としては言語で伝えられなかった部分は想像で補っていく。この過程で私と相手の頭の中の映像は必ず別物になってしまい、意図せずして「私とは私のウソのことである」(寺山の代表的な言葉)のとおりになる。
また、自分の中でうまく考えがまとまらない時に人に話すとうまく整理できるという話もある。
以上のことから、私は記憶を言語化することそのものを「編集」であると考える。

3. 

 寺山の「記憶の編集」は私が1や2で述べたような無意識の必ず起きている編集とは違い、確かに明らかな虚構を交えている。この段落では寺山的「記憶の編集」について考える。寺山は自分の人生そのものを作品として仕立てることを目指したのかと思う。寺山修司の作品、『事物のフォークロア』の中に「俺自身の死だって言語化されてしまうのを拒むことができないのだよ! ああ 喜劇!」という言葉がある。事物のフォークロアそのものが個人的には寺山の考えをよく反映したものだと思っているが、私は、寺山は誰でもなく自分でその「俺自身の(死の)言語化」をしたかったのではないかと考える。
 寺山修司は生涯多くのジャンルの創作物を生み出してきたが、彼は一貫して「寺山修司という作品」作りをしたのではないかと思っている。その過程で虚構を交えた記憶の編集は必須だったのではないだろうか。

4. あの時の自分との対話
 私が自分の人生を作品にするために過去の自分と対話する場合、12歳と16歳の自分と対話したい。
12歳の自分は恋愛と、習い事の二つに、今から考えれば考え足りない決断をしてしまった。習い事である道場での剣道をあの時些細な人間関係でやめていなければ、と後悔したことは数えきれないほどである。高校に入って剣道を再開したときに、自身の持つ段位(段どころか級どまりだったが)と自分より剣道歴の浅い人間の段位の差に深く傷つき、今でも後悔している。12歳当時はいじめられていたこともあり、精神的に余裕がない時期であったのは確かである。また、恋愛に関しても無知すぎたし、周りに相談できる相手もいなかった。12歳の自分には、当時自分がどれだけ思い詰めて恋愛と剣道をしていたのか聞きたいし、今の自分が剣道とその時の恋愛相手をどのように考えているかをぶつけたい。今でも剣道は大好きだが、病気で体調が悪く、剣道を満足にすることができない体である。せめて遅れた分の段は取り戻したいのだがそれも難しい。「好きだった人」は成人式ののちの同窓会でまた「好きな人」となりかけた。私は12歳を今も引きずっている自覚がある。可能であれば今のその二つの出来事への好意を熱く語りたい。
 16歳は高校入学、剣道再開の年であるが、それよりも当時自分は「誰からも嫌われたくない」という中学まで続いたいじめの反動とも取れる考えを持っていた。そのせいで6月にできた彼女と11月に別れることになったし、あの頃の人付き合いのほとんどがもう続いていない。自分にとって大切な人は誰なのか、誰とかかわっていくべきなのか。正解はないが、選ばないで全員と接するという選択が明らかに良くなかったということを今の自分は知っている。特に当時の彼女にはとても嫌な思いをさせただろう。当時の自分とは人間関係をどうしたいのかについて、意見を交換したい。今の自分もあまり人間関係ではうまくいっていないからだ。過去の自分から得られることももちろんあるはずだ。結果として今に集約されたとしても、過程が少しでも変えられるのであれば、私はそのために対話をしたい。